小田原三茶人とは

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小田原三茶人とは、小田原で近代茶道を極めた、益田孝(鈍翁)、野崎廣太(幻庵)、松永安左エ門(耳庵)の三人のことを指す。

■ 益田鈍翁

三井の大番頭と呼ばれ、世界最大の財閥に育て上げた功績で知られる。三井物産の初代総轄(社長)。「利休以来の大茶人」と評され、1906年に小田原の板橋で「掃雲台」を営んだことから、多くの実業家、政治家、軍人などが小田原に居宅や別荘を建てた。このことから「小田原詣で」の言葉が生まれ、小田原に近代茶人文化が興隆した。

■ 野崎幻庵

茶人たちの茶会記事を、個人的に創刊した中外商業新報(日本経済新聞の前身)などへ1906年から1927年まで書き続けて詳細に報じ、茶道を広めた。中外商業新報社長、三越呉服店社長を歴任し、小田原の十字町諸白小路に「自怡荘(葉雨庵)」を、次いで天神山伝肇寺裏に「安閑草舎(山房)」を造営した。こうして小田原を舞台とした近代茶人文化はますます盛んになった。

※1938年に鈍翁が、1940年には幻庵が相次いで他界し、さらに太平洋戦争の影響で一時小田原の近代茶人文化は停滞を余儀なくされた。

■ 松永耳庵

戦後の経済界を指導し「電力の鬼」として知られる。鈍翁に導かれて茶の湯の世界に入り、1946年に「掃雲台」の近くに「松下亭」(後に「老欅荘」)を造営し移住したことから再び近代茶道が再興し、1971年に亡くなるまで継続された。

「小田原三茶人」という名称は、1988年に小田原市郷土文化館が分館(松永記念館)で開催した特別展「近代小田原三茶人展―鈍翁・幻庵・耳庵とその周辺―」が初出であるとされています。そのため「近代小田原三茶人」と称することが正しいとも言われています。また、その際に「近代」が表記されたのは、後北条氏の治世に茶の湯が盛んだった時代があるため、区別したものであるとのことです。

それ以前は、時代の重なる鈍翁・幻庵に、安閑草舎の隣に「三樹荘」を営んでいた貴族院議員、室田義文(頑翁)を加えて、「小田原の名物三老」としたことがあったものの、あまり一般に広まらなかったそうです。また、近代茶道の偉人の中から、鈍翁・耳庵・三渓(原富太郎)を「近代三茶人」とすることがあります。

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